ネット大喜利の面白さについて

ニュース

こんにちは。おうかと申します。これから時々GiriNewSに寄稿させていただきます。簡単な自己紹介から始めさせて下さい。

〈実績〉

・ボケクエスト4優勝

現在開催されているボケクエスト5の前大会、ボケクエスト4で優勝しました。ボケクエストはチーム(4人構成)戦の大会になります。

ネット大喜利を始めて二年と少し経ちますが、目立った実績はこれくらいです。しかしこれでは、たった一度優勝したくらいで何を偉そうに、と思われるかもしれません。

ですから、次のようなことを予め断っておきます。私は記事で何か(たとえば、大喜利のテクニックなど)を指南するつもりはありません。代わりに、大喜利という文化がいかに我々にとって面白く興味深いものか、ということについて書いていきたいと思います。

私は、(ネット)大喜利は文化と呼んでよい代物だと思うし、ユーモアというカテゴリにおける独立したジャンルの一つと言ってよい、と思います。大喜利は、漫才やコントのようなネタ文化に引けを取るものではない、と考えています。

こうした考えは、私の大喜利に対する見方・考え方に根拠を置くものなので、その点についても説明させて下さい。

まず、大喜利はネット大喜利と生大喜利に大別できると思います。生大喜利は、目の前にいる観客を笑わせることに重きを置いているでしょう。そして、目の前というわけにはいきませんが、ネット大喜利もその点は同じです。

では、目の前にいる観客からのレスポンスが貰えない分、ネット大喜利は生大喜利に劣ったものなのでしょうか。私はそう考えません。ネット大喜利は、目の前に観客がいないからこそ、独自に「面白い」の幅を拡張させてきたのではないかと考えます。

たとえば、ネット大喜利では、他人の回答を採点することがあります。もちろん、笑った回答に点を入れることもありますが、「すご」と思った回答に点を入れることもあります。また、口では「おもしろ」と言っているのに笑っているわけではない、ということもある。しかし、どの場合においても、実感としてはやはり「面白い」なのだと思います。

ネット大喜利は多様な面白さを扱うことができる。感想は「すご」でも「たしかに」でもいい。そして、それこそが他ジャンルのユーモアにはなかなか見られない、ネット大喜利ならではの良さだと思います。最後に、ネット大喜利における面白さの一例を示して、この記事を終わりたいと思います。

たとえば、「熱血教師しかいない学校で起こりそうなこと」というお題があったとします。現実では、ほとんどありえないことだと分かるでしょう。しかし、それが「ありえないことだ」と分かるのは、お題にある「学校」や「教師」などの要素が、現実世界に存在しているからです。たとえば、お題として「UCpy806b」のような意味不明な文字列を示されても、それが現実世界に根ざしていない(言語であるという点では根ざしていますが)以上、我々はそれを理解することも語ることもできません。

ですから、お題は「我々が生きる現実世界の一部分を改変したもの」である必要があります。その意味で、お題によって想定されている世界は平行世界的だと言えるでしょう。

そう捉えると、大喜利には「現実世界のリアリティに基づいて平行世界のリアリティを想像する」という思考実験的な面白さがあります。我々が生きている世界のある部分を書き換えると、どのような「当たり前」が崩れて、代わりにどのような「当たり前」が生まれるか、というようなことです。その意味で、大喜利は日常言語や日常世界の外側を旅する営みだと言うこともできるでしょう。

色々と書いてみましたが、結局のところ、私が言いたいのは「大喜利は面白いよ」ということです。ですから、私の書き手としての立場は「大喜利強者」とかではなく「大喜利を面白いと思っている人」です。皆さんの中に大喜利を面白いと思っている方がいるなら、ぜひ何らかの形で発信してみてはいかがでしょうか。それはきっと、大喜利という文化に対する何かしらの貢献になると思います。

おうか

コメント

この記事へのコメントはありません。

TOP